こころねNEWS
私達夫婦が「こころね」という、僅か6部屋しかない小さな宿を創業して11年(2018年現在)が経ちます。
お陰さまでたくさんのお客さまにご愛顧頂き現在に至ります。これまで支えてくださったリピーターの皆さまをはじめ、これからこころねという宿にお越し頂くお客様に対し、今までお伝えすることがなかった開業までの私達のこと。そして宿こころねに対する想いや志をしっかりとお伝えできればと考えました。この創業物語は私達の歴史を包み隠すことなく赤裸々に綴ったもので、オーナー編、女将編、出逢い〜下積み編の3部構成でお伝えいたします。
「オーナー編」
この宿の主である私、岸本昭男は1975年に大阪府で生まれ。父の仕事の都合で、関東に移り住み東京都足立区、埼玉県草加市を経て、千葉県松戸市に移り住みました。勉強はからきしダメでしたが、体を動かすことが好きで、小学生時代は野球を、中高では陸上部の長距離に所属しました。思い返せば若い頃から大きく3度の挫折を繰り返しました。
まず高校は、全国大会出場を目標に掲げたチームでしたので、周囲の期待も大きかったのですが、思うように記録が伸びず幽霊部員と化してしまいました。これが1度目の挫折です。ただ、その時の同期の仲間達は、3年の時に悲願の全国高校駅伝出場を果たしました。(ちょっと自慢)因みに1993年前後、その頃世間はバンドブームでもあり、自分もバンドのボーカルを始めたりと、この頃からあれこれ興味が湧いて自分のやりたいこと探しが始まったのかもしれません。
高校卒業後は専門学校に通ったのですが、バンドに力を入れたいと言い出し学校を辞めてしまうのです。これが2度目の挫折となりました。バンドで食べていこうなどと真面目に思っていたのです。これは本当に親不孝をしたと今でも思っています。1995年の出来事。
そこからはいわゆるフリーター化。アルバイト生活で食い繋ぐ様な生活をしながら、バンド活動を続けてはいたものの思うような結果は出せず、目標も見つけることは出来ず、いつもモヤモヤしていた気がします。そんな頃、バイト先で知り合った仲間に、一緒に波乗り行こうよと誘われて、ここからサーファーとなり波乗り中心生活となりました。バンドも上手く行かずにいた頃で、これは大きな転機となりました。1996年の出来事。
すっかりサーファーになった私は、千葉県松戸市の実家から、ひたすら千葉や茨木の海へ通う生活をしていました。昔から凝り性で、サーフィンが上手になりたくてとにかく夢中でした。適当にバイトしてサーフィンして。真っ黒に日焼けした肌に、茶髪の風貌。どんな生活だったかは言うまでもありません。しかし将来への不安が無かったわけではありません。定職に就かずサーフィン三昧。お金もない、学歴もない、もちろんバンドでデビューなど出来る状況にはなく。
そして1997年夏、バンド解散と、旅立ちは同時に訪れたのです。当時の私にとってこの夏、衝撃的なドラマがTVで放送されていました。「ビーチボーイズ」反町隆史さんと竹野内豊さんが、マイク真木さんの経営する民宿で住み込みでアルバイトをして、ひと夏を過ごす物語です。これだ!そう思うと私は、求人誌ではなく、旅行雑誌を片手にドラマと同じ様に住み込みで働ける宿を探し、片っ端から海沿いの宿に電話をしました。伊豆の伊東市で運良く見つかった1軒のペンション。私は迷わずそこへ引っ越すことに決めたのです。
それと同時にバンドは解散。結局これが3度目の挫折となったのです。でも後悔はありませんでした。それまで実家暮らしで、事ある度に両親に甘えていた自分を何とかして変えたいと思っていましたし、昔からの友人がたくさんいる松戸での生活では甘えが出てしまい、自分は変われないと思っていました。もちろんこの時は、自分が後に宿の経営者になるなどとは微塵も思ってはおらず、むしろ波乗り三昧の生活に希望を膨らませていたのです。
「女将編」
女将である岸本有紀は1975年静岡県静岡市に生まれました。3姉妹の末っ子で、父親は大工。昔ながらの頑固親父を絵に描いたような父と、いつも優しい母親の元で育ちました。幼少期は内気な性格で、習っていたスイミングの先生に名字を間違えて呼ばれていることを正せないまま1年以上が過ぎたり、短髪で色黒だったため男の子に間違われても違うって言えなかったり。今思うと他人を否定できなかったり断れなかったりする性格はその頃から変わっていない私の一面なのかと。
小中学校では友達も勉強も運動も何も困ることなく平凡ながら楽しい毎日。出来ないこともなければ、人より秀でるものも特にない、将来の夢もなければ、無我夢中で取り組んだ事もない。あの頃、夢中になれる何かがなかったからこそ今があるのかも。だからこそ今の世の中、小さい頃から何か目標や夢を持っていなければいけないような風潮に違和感があって、人生の転機やチャンスはもっともっと先にあっていいものだし、心配し過ぎて前に進めないのはつまらない。毎日楽しく生きて、なるようになってた、そんな子供時代でした。
高校では勉強で挫折。今までそれなりに出来ていた事も嘘のように。自分の中で高校受験がゴールだったかのか、それ以降は勉強が全くわからなくなりひどい成績に。高校時代一番頑張ったことはバイト。自分が働いてお金を稼げる事が嬉しくて、好きなものを買える事に感動。早く社会人になりたい思いと、周りのみんなが大学受験を考えている中、1人就職する勇気もない自分。1人でも行動できる強さもなく、地元の短大を受験することに。
短大時代は他の学部とは比べ物にならないくらいハードな学部で、週5日朝から夕方まで講義があり、バイトも掛け持ちしてとにかく忙しい毎日。何とか栄養士になり卒業。昔から食べ物に興味があり、作るのも食べるのも好きだったから食物栄養学科を選んだその選択は正しかったのか。
食物栄養学科だった私は地元の食品会社の開発部に内定をもらい20才の春に社会人に。毎日試作と試食で楽しく美味しく過ごしていたら人生最大の体重に。ボーナス払いでローンを組み、痩せる機械を購入。高金利で組んだローンの総支払額は50万円。でも残念なことに思うようには痩せるわけもなく、50万円の機械を捨てる勇気もなく押入れに眠らせることに。そんなぽっちゃりな私は、会社の同僚と伊豆にグルメ温泉旅行を計画。たまたま同僚の友人が選んだ宿が、のちにこころねとなる今の我が家。あの時は今の人生は想像すらしていなかった。
「出逢い〜下積み時代編」
そんな私達が出逢ったのが、2人別々に流れ着いたペンション。同僚として働き始めた後に交際開始。1998年の出来事。
当時若かった事もあり休みになれば共通の趣味の波乗りを楽しんだり飲みに行ったりと、どこにでもいるカップルでした。
安定の職業ではなく、将来の不安もありながらも、2年間の交際を経て2000年に結婚。共に24歳の未熟な夫婦の誕生でした。
結婚後も相変わらず波乗り主体な生活は続き、海外旅行をしたり好きな事をして生活していました。
ただ、結婚後しばらくした頃から、身の程もわきまえず、いつか自分たちのお店を持ちたいと、独立願望だけは強かったのです。
26歳の頃には、飲食店を開業したいと思い、テナントを探しに静岡市内に物件を見に行ったこともありました。その頃初めて事業計画を立ててみたのですが、自己資金は殆どゼロ、金融機関の信頼ゼロ、経営ノウハウもゼロ。気付いたことは、まずはお金を貯めようと言うことでした。誰が見ても当たり前のことでも、若くて勢いだけの自分たちには全く状況が理解出来ていなかったのです。さらに事業計画を考えていく過程で、未経験の自分たちが知らない土地で経験もない飲食店経営は難しいと結論に至りました。リスクの少ない小規模店舗を始めたとして、日に何人呼んで、いくら売り上げて、家賃がいくらで、光熱費はと、思った以上に厳しい現状を突きつけられたのです。知れば知るほど厳しい現実。こうして一旦独立の思いは封印することにしたのです。
30歳も近くなった頃には、勤めていたペンションの店長を任されていました。この頃になると、宿経営の大まかな概要が見えてきていました。そして夫婦で話した結果、自分たちにはここまで宿にお勤めして経験したものがあるので、宿屋として独立しようと気持ちが固まったのです。それからはたくさんの中古物件を見て回りました。中古ペンションや保養所、旅館、民宿などしかし中々思ったようなところには出会うことはなく、またも壁にぶち当たります。31歳の頃には、独立に向けて料理の技術を磨くために、お勤めをしながらではありましたが、知人の紹介で伊東市内の魚専門店に修行をさせてもらいました。お給料はいらないので、魚のことや和食の基本など、なんでもやるので教えてくださいとお願いしたところ、快く受け入れてくれたのです。
そんな時に運命的な話が舞い込んできました。それは、これまで10年以上お勤めしてきたペンションのオーナーが、手放そうと思うので、私達夫婦に買い取ってくれないかというものです。2006年にこの話をいただきましたが、時代は宿泊業界の低迷期です。更には妻が第一子を妊娠中だったこともあり、長年の夢だった独立を目の前にして、正直言って本当に出来るのかと不安になったのです。周囲からも、よく考えたほうがいい、止めたほうがいいなどの声が上がり、あらためて考えさせられました。
夫婦の共通点は、やると決めたら良くも悪くも突き進む事。2007年2月私達は一大決心をして、11年間お世話になった宿を買い取り、遂に宿のオーナーとなったのです。そしてOPENまで2ヶ月足らずの間に、老朽化した外壁工事を中心に行い、その間に料理やお皿、サービス内容を自分たちのやりたかった物に変え、露天風呂の改修工事は妻の父と私との2人で行い準備に明け暮れたのです。妻は前年の9月には無事長男(宗真)を出産し、育児をしながら開業の準備にあたりました。開業時には長男が6ヶ月と目が離せない状況の妻を支えるため、妻の母が長年暮らした静岡から伊東へ移住することを決意し、スタッフとして裏方を手伝ってくれることになりました。私達夫婦と妻の母、外美枝が加わりスタッフは3人でスタートすることとなりました。
そして自分たちの宿を始めるにあたって、大きく2つのコンセプトを決めました。
「金目鯛を中心に料理に特化した宿である。お客さま一人ひとりに寄り添う宿である。」
当初はこの想いだけを掲げ、その他は手探りで進んでゆくのです。
2007年3月24日土曜日朝から雨が降っていました。わずか5組のお客様をお迎えして私達の宿が誕生しました。